2008-05

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風土

探検家の関野吉晴氏は、自らを「風の人」だと言っている。
風土という言葉が好きなのだそうだ。風と土。本来、人間というのは土の人で、大地に根を下ろして生きていく。ただそれだけだったら、その土地は変わらない。やはり、新しい風を運んでくる風の人が必要なんだという。
そして関野氏が強調するのは、土の人と風の人は対等でなければならないということだ。運ばれてくるその風が対等な風ならばいいのだけれど、たとえばコロンブスという風や、アジアにやってきた帝国主義、ヨーロッパ列強というのは悪い風だったと思う、と言っている。
南と北の不公平さや、世代間における不公平さ。地球上において、どちらか一方が圧倒的に有利というつきあい方はよくない。「フェアである」という言葉が地球の理想像を考える上でキーワードになる、と話していた。

風土とあまり関係はないのだけれど、困ったことに「土の人」の仕事であるハーブ栽培に支障が出そうなのだ。明日から2週間弱、わたしは家を空けることになる。その間、なんと砂漠人まで、1週間くらい留守をすることになってしまった。バジルの成長にとって非常に大事な時期だというのに、1週間も放っておいたらダメじゃないか…。
いまさらながら、なにかを育てるためには「土の人」である必要があることに気づく。どうしたものか。

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里山

フラットから駐車場に行くまでの中庭を歩いていたら、なにかの動物の糞が落ちていた。最初、土かと思ったのだけれど、すぐに沙漠人の話を思い出したのだ。
砂漠人は朝早く駐車場で、2頭のトナカイに出会ったと言っていた。まさか…と返すわたしに、嘘だと思ったら証拠を見せてあげると言う。その証拠を思いがけず見つけてしまった。直径60cmくらいの円上にボタボタと落ちていたトナカイの糞。
トナカイは、大きな角を持ったシカだ。あのサンタクロースをそりでもって乗せてあげている動物だ。そんなのが、民家の中庭を歩いていたなんて。見たかった…。
でも実は、森の中で2頭のトナカイを見たことが一度だけあるのだ。雪が積もった冬の日だったと思う。その角は大きくて、神秘的な形をしているので『もののけ姫』のシシ神を思わせた。いや、本当は、『もののけ姫』を観たときに、このトナカイを思い出したいところだけれど。
駐車場はフラットの裏の中庭を抜けたところにあって、その向こうには車道が走っている。フラットの向かいには森がある。いつも「森」と書いているけれど、要するにこれは日本語で「里山」とか「雑木林」と呼ばれる小さな森だ。英語で "forest" と呼んでいる。『もののけ姫』に出てくる「シシ神の森」、あるいは原生林ではないのだけれど、トナカイ、シカ、ウサギ、リスなどの動物たちが棲み、ときにひょっこりとその姿を現わす。ここの里山からあちらの里山へ引越することがあるのかもしれない。
スウェーデンでは都市においてもこういう里山が当たり前に残されていることに感心させられる。人口が少ないから自然に残っている訳ではないのだ。里山を切り崩して住宅を建てることができないしくみになっている。そのしくみは、政治そのものがなしている。日本では「トトロの森」を守るために、市民が募金をしなければならない。日本人は自然を愛する民族ではないと問われたら、一体どんな言い訳ができるだろうか。

バジルの植え替え

毎日、夕方には部屋の中に取り込むほど大事にしているバジル。芽は順々に出てきてはいるようなのだが、全体的に大きくなっている感じがしない。一日に何回もベランダに見に行ったりして…。見過ぎなんだろうか?

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今日も天気がよかったので、思い切って植え替えをしてみた。小さな木になってフサフサと葉が生えるためには、1本の苗について植木鉢ひとつくらい与えてあげた方がいいように思ったのだ。さて、どうなることやら。
もう少ししたら摘芯をして、わき芽を出すとよいらしい。葉は中心から2枚ずつ、交互に生えてきている。今のところ、一番多いものでも8枚しか葉がないので、10枚以上になったらやってみよう。中心から出てきた芽を摘むと、今度は脇から芽が出てくるそうだ。ほんとかね。

今の季節、イエテボリにしてはめずらしく天気がいいらしい。砂漠人は、本番の夏の天気を心配しているくらいだ。それでも夕方は肌寒いから、バジルは伸び悩んでいるのかもしれない。砂漠人は、天気がよくても悪くても人生を楽しんでいる。

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感覚と進歩

「だってそうでしょ?」
「感覚が鈍ってんだもんー」
養老孟司氏の口調は、非常に小気味よい。人類の進歩について、あるインタビューの中で氏はこのように言っていた。

──人間が以前に持っていた能力をつぶして上に積んでいったとしたら、それは進化ではなく、交換だ。それはピラミッドを土台から積み上げて築くのと、竿を一本建てるのとの違いだ。竿というのはあまりに脆い構造で、そういうものを進歩とは言わない。
感覚が鈍った分だけ他のことができる。でもそのできることは、冷暖房完備で電気がないとできない、エネルギーを借りて来ないとできない、というのでは、それは進歩とは言わない──

この話を聞いたとき、わたしはすぐにイランの村での自分の体験を思い出した。
砂漠人の実家では、洗濯は女性が手洗いをしている。なぜかといえば、全自動洗濯機がないからだ(正確には、あったのだが「洗い」以外の機能が壊れているようで脱水すらできなかった)。当然わたしも手洗いをするしかなかったのだけれど、小さな下着類はともかく、ワンピースや男性の服などはサイズが大きくて、非常に洗いにくい。洗う場所はシャワー室の中にしゃがんで、大きなたらいの中でゴシゴシやる訳で、すぐに腰と背中が痛くなる。普段、しゃがむ姿勢で作業することがないことを痛感する。そしてようやく洗いと濯ぎが終わった後に、脱水。この絞るという作業にはさらなる力が必要なのだった。
そんなこんなで、それまでのトレーニングの甲斐もなく、わたしは手洗いという作業をすぐに諦めざるを得ず、またそのことで、将来の村での生活に異様な不安を覚えてしまった。砂漠人は、全自動洗濯機を買うから問題ないと言っていたけれど、問題は、指1本で洗濯を済ませてきたがために使えない自分の腕力・身体力なのだ。
生活の仕方を昔に戻すべき、とは簡単に言えないけれど、利便性を追求しすぎたために本来人間として持っているべきはずの感覚や身体性を失っているのだとしたら、できればわたしは人間本来の状態に近づきたいし、失った感覚は取り戻すべきだろうと思う。目と頭と口、あるいは指先だけを使って仕事をしていれば、知らないうちに多くのことを見失うはずだ。
自分の感覚が鈍っていること、身体性が偏っていること、考え方が偏っていること、それに気づくためには感覚の訓練が大事なのだろう。頭で考えているだけでなく、身体で実践すること。現代における人としての進歩は、それをすることのうちにあるに違いない。

赤い虫

ウォーキングから戻る途中、赤い色の虫が目に止まった。花も実もそうだけど、赤い色というのは緑の中でよく目立つ。

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一体どんな虫なんだろう? ヒメアカハネムシというのが一番似ているようだが、いまいち確信が持てない。昆虫に詳しい方がいらしたら教えてください。

昆虫で思い出すのは養老孟司氏だが、彼は「人間は生き物なんだから、ほかの生き物が自然の中でどうやって暮らしているかを考えたらいい」と言う。氏によれば、現代社会・都市社会では感覚の幅が狭くなっているとのことだ。感覚とは、外界からの光・音・におい・味・寒温などの刺激を感じる働きと、それによって起こる意識のこと。
日本も戦後しばらくは人々が身体で生きていたのに、徐々に意識中心の社会、脳化した社会へと変わってきたという。それはどういうことかというと、世界が意識的に動くという前提で物事を考える、つまり「ああすればこうなる」という考え方をしている人が多くなっているというのだ。←わたしだ。
養老氏は、「そういうふうに思っている人は、背中に自分の命日を書いておきなさい」と言っている。思わず笑ってしまったが、本当だ。実際、この世は自分が考えたようになるというような世界ではない。
脳と身体の主従関係について、氏は脳が3~4割、身体が6~7割だと言うのだ。言葉を使うようになった脳が生まれたのは4~5万年前だが、身体には何億年もの歴史がある。だから、身体の一部であって年も若い脳に10割近く依存するのは危険なのだと言っている。そして多くの人はそのことをよく分かっているはずなのに、感覚が壊れると脳だけが暴走して、判断がおかしくなりがちなのだという。身近にある鬱病や拒食・過食、自殺などを考えればよく分かることだ。
また、こどものときはみな動物に近い、鋭敏な感覚を持っているのだけれど、社会がそれを消していくのだという。そして大人でその感覚を持っている人は「野蛮人」と呼ばれたりすると言っていた。←砂漠人のことだ!
感覚が縮小してしまった身体に宿る脳の暴走を防ぐための錨をどうやって降ろしておいたらいいか、それは感覚を遮断するのをやめて、自然に触れて生きていくことだと言う。至極。

グリル

イエテボリではだいぶ日が長くなって、夜10時くらいまで外は明るい。朝は3時くらいに薄暗くなってくるから、夜の時間が本当に短いのだ。日中、中庭に座って過ごす人も増えてきた。

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せっかくお客さんがあったので、我々もさっそくこの春初めてのバーベキューをした。空気も乾燥しているし天気もよかったからなのか、ちょっと準備をして中庭に駆けつけたときには、砂漠人がすでに火を熾し終わって、炭がいい状態になっていた。でもバーベキューの醍醐味のひとつは、火を熾すところなんだよな。

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今回は挽肉で作ったケバブと野菜をたくさん。市場で出回るようになった新鮮なハーブやにんにくも添えて、むしゃむしゃ。みんなはちきれんばかりに食べていた。バーベキューをすると、こどもでも大人でも誰でも、必ず食欲が最高まで盛り上がるから不思議だ。

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砂漠生活の友

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先週のお客さんは、日本から来た砂漠っ気がまったくない友人だった。たった数日間だったけれど、砂漠生活を共にしてくれた。スウェーデンでの砂漠生活の内容は森でのウォーキング、豊かな食事、深い睡眠の三つに限る。この3点セットに少しでも満足できたならよいけれど。

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市場

先週はお客さんがくることになっていたので、砂漠人はいつもより多めに買い物をした。お客さんが誰であれ、訪れた人には最高のもてなしをするのがトルクメンのしきたりなのだそうだ。

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この他に肉やチーズ、ピクルスや缶詰など、カメラに収めるのが面倒なくらい調達した。普段から野菜と果物はたくさん食べているけれど、砂漠人にとってはお客さんのときに食材が足りなくなることくらいイヤなことはないのだそうだ。もちろん、人数が増えればそれなりににぎやかで、先週はひと味違う食事風景となった。

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上は、お客さんがくる直前に二人で済ませたケバブの夕食。これでも十分にぎやかな食事風景じゃないか! という声が聞こえてきそうだ。よい食事のためにはやはり、仕入れが一番重要なのだ。

バジルの株分け

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友人のアドバイスにより、バジルを株分けしてみた。
バジルの束を買ってきた時点で、砂漠人に言われて6つくらいに株分けはしていたのだけれど、1本1本分けるなんて想像もできなかった。もっと調べてみると、挿し木という方法でも増やせるようだ。生物の授業で、植物というのは細胞が1個あれば、同じ個体(クローン)を増殖できると習ったけれど、そのことなんだろう。枝が1かけあれば、そこから根が出て、芽が出て、花が咲き、実がなる。
そういえば、買ってきた日に折れてしまっていた枝を水に挿しておいたのだが、今日見たら、やっぱりそれから根が出ていた。その1本も一緒にプランターに植える。全体としては、葉が少しずつ成長していて、新芽も出ているようだ。

ところでバジルの株分けや挿し木を検索していたら、バジル栽培を実験しているおもしろいブログを見つけた。この人は土のついたバジルどころか、バジルの葉から増やそうとしている!

チャッピーのワンルームベランダ菜園:http://pepepexchapy.blog.shinobi.jp/Entry/47/

りんごとリス

あいかわらず毎週末、市場でいろいろな果物を買ってくるのだけれど、ときにはハズレのものもある。今週はりんこがいまひとつで、二人とも食べないので表面がしなびてきてどうしようかと思っていたら、砂漠人が鳥やリスにあげようと言い出した。THAT'S A GOOD IDEA!
そこで昨日は森に行くときに、残っていた6個のりんごを持っていった。いつも鳥やリスに出会う場所に置きたいと思ったのだ。そして砂漠人の言うとおり、歩道からは見えない木の裏側の根元のところに2個ずつ、3カ所に置いてきた。「リス、食べるかな」「鳥はつつくかもしれないな」などと軽く期待していたけれど、実際、それはほんとに淡い期待だった。
今日になって、りんごを置いた木がどこだったかもおぼろげになってしまい、「この辺りだったかな?」と木の根元を探っていたら、砂漠人がこう言うのだ。
「あれ、りんごじゃない?」
「リスがりんご食べてるんじゃない?」
なんだか楽しそうに囃し立てていたので、またわたしを喜ばせようと思って、ふざけているんだなと確信したわたしは「またー、冗談でしょ!」と返し、しばらくの間、見つからないりんごを探していた。でも砂漠人にしつこく促されて、ふと木を見上げると、なんと、緑の樹々の中に紅一点、丸いリンゴらしきものが見えた! それを木の上に運んでいるのはどう見てもリスだ。しかも、ちょっと重そうだ。

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信じられない。わたしにとっては今年2番目くらいの感動的な出来事だった(1番はやはり、砂漠でラクダが目の前に迫ったことか?)。今日、たまたまわたしたちが森の中を歩いている1~2時間のあいだに、りんごを木の上に運んで食べるところを見せてくれたのだ。野生のリスが姿を現すのは自然なことかもしれないけれど、わたしにはかなりの刺激だった。

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表情が喜んでいるように見えませんか↑?

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リスの登った木の周りをぐるんぐるん回りながら、写真を撮った。リスは本当にうれしそうに、りんごをほおばっている。

家庭菜園

このところ、天気がよくて外がまぶしい。森では、鳥やリスがとても近くに寄ってくることがあるので、ひょっとしたら、だいぶこの場所になじんできたわたしにあいさつをしているんじゃないかと思ってみる。
日課のウォーキングをしながら、「柳生真吾の“花だより”」というポッドキャスト番組を聞いた。園芸家である柳生真吾からの花だよりということで、花に限らず、園芸に関する小話を月に4つくらい話している。「薪ストーブの魅力」やら「柳生流 焚き火のすすめ」やら、園芸とは少し離れた魅力的な話題もある。ご本人は八ヶ岳にお住まいとのことで、なんともうらやましい。森とつながった広い庭に、花や果物や野菜をいっぱい植えて生活しているのだろう。
家庭菜園をしている人のブログを読んでみれば、「芽が出た」とか「実がなった!」とか、いかにも楽しそうだ。もちろん、わたしもやってみたい。庭にいちじく、ザクロ、レモンなどありとあらゆる果樹を植えて、野菜を育て、石釜も設置する。毎日、穫れたての野菜を料理して、お隣さんや親戚を呼んで大勢でたくさん食べて、たくさん話す。
そんな日々を夢想しながら、ベランダでひっそりと実験を始めた。

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スーパーで食用のバジル(土が少しついているやつ)を買ってきて、それをプランターに植えてみた。株が増えてモリモリ生えて来ないかなあ…。砂漠人は、「買ってきたものはどんなケミカルを使っているか分からないから、増えるとは限らない」と言うのだけれど、それでも期待に胸は膨らむ。バジルの茎がうなだれないように、支えの小木を挿したのは砂漠人だ。花瓶に飾ってあって枯れかかっていた花の枝を、とっさに折って土に挿していた。

たんぽぽの景色

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イエテボリの森にもひっそりと桜が咲いた。誰が見に来るわけではないけれど、満開だ。砂漠人は花がたくさん咲いたことをとても喜んでいる。なぜってそれは、花の後のさくらんぼがたくさん食べられるから…。

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わたしは桜より、たんぽぽに夢中だ。青空の下、原っぱ一面に小さな黄色が咲いているので意味なく歩き回ってしまう。たんぽぽやひな菊などの小さな花が一面に散らばって生えているのは、とてもかわいらしいと思う。芝生にひな菊がたくさん生えているニュージーランドの景色をよく覚えているけれど、実際はもう30年近くそれを見ていないのだった。それだけの年月が経ったことにあらためて驚いてしまう。

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たんぽぽやひな菊のある景色は、時間と空間を超えても変わらないものだ。30年前にニュージーランドでも見たし、日本に毎年あるし、スウェーデンにもある。イランの砂漠でも見つけた。緑の草が生え始めている砂漠に、ぽつんと咲く黄色い花。うれしくなって写真を撮ろうと思ってカメラを向けたら、なんと子犬たちがパクッと食べてしまったのだったが。

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不良の母親

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前足をひもで結ばれたこの羊、どうしたのかと言うと、こどもにミルクをやらないのだそうだ。自分のこどもが分からないのか、それとも嫌いなのか知らないが、おっぱいをせがむ子羊を冷たくあしらっているので、前足をしばって逃げられないようにされたというわけだ。それでも逃げる母親を押さえつけて、子羊はなんとかおっぱいを飲んでいる。

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つねに寄り添って動く親子もいれば、自分の赤ちゃんなどおかまいなしに過ごしている母親もいる。ほとんどの母子は自然と寄り添っているのだけれど、ときどき、不良の母親もいるようだ。羊も人間も似たようなものだな。

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上の写真は、砂漠人の名前をつけた双子の abi とその母親。その後、良好な親子関係を築いているようで、なによりだ。それにしても、双子だと一気に両側からおっぱいを飲んでいる。人間もそうなのだろうか?

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こちらはおっぱいをやらない不良ママ。右半身の足を壁に縛りつけられている。産まれたばかりの小さな子羊が、そばでフテ寝しているようだ。

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まだ弱々しい赤ちゃんで、生きるためにはおっぱいだけが頼りなのに、お母さんが相手にしてくれない。ちょっとうらめしい表情に見えるのは気のせいだろうか。

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こちらはヤギの不良ママ。双子のうち、片方の子だけにしかおっぱいをあげないらしい。あまりの不良ぶりに、なんと首まで縛られていた。これだとまったく身動きが取れずに観念するしかない。

ところでスウェーデンでは、不良の母親は国にこどもを取り上げられてしまうそうだ。こどもにとってその家庭環境が悪い場合、行政が介入してこどもを救い出すしくみができているそうなのだ。一人のこどもが、将来国の財産となるべき一個の人間として扱われていて、こどもの人権が重く考えられているように見受けられる。それに比べると日本では、こどもは親が所有するところのもの…という考え方に近い気がする。こどもについてはその親が絶対的な決定権を持っているため、行政が入る余地はない。ひどい親に当たってしまったら、運が悪かったということになってしまうのだろう。こどもとしたら、自分の可能性が親という第三者によって阻まれてしまうのだから、いい迷惑だ。ただスウェーデンのように、自分の人生が親の人生によって左右されない場合、うまくいっている場合も親のおかげではないということならば、愛情や感謝の気持ちが薄れて、親子または家族としての結束もゆるいものになってしまうのかもしれない。個人主義の老後は、独りぼっちだ。伝統的な生活を守っているトルクメンの老人のように、家族に囲まれて歳を取るということは、まずないだろう。

…どういう生き方がしあわせなんだろうか。

砂漠の朝

砂漠の朝は、羊とヤギの鳴き声で始まる。夜のうち、砂漠の中を自由に動いたり休んだりしていた群れは、夜が明けるに連れて自然とユルタの側に戻ってくるようだ。羊飼いがユルタの外に出る頃には、羊の母親がそのこどもの寝床である囲いのそばに集まっている。

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「おーい、坊やー。どこにいるのー?」
「ママー! ぼくここー!」
といった感じか? 囲いの外から母親が、囲いの中からこどもがお互いの所在を確かめているようだ。子羊たちは、冬の夜の寒さから守るため、群れから離して囲いの中で過ごさせている。
朝一番に、囲いの扉を開けるそのときが劇的なのだ。砂漠の一日の中で、この瞬間がクライマックスだとわたしは思っている。

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一斉に囲いの外に飛び出す子羊たち。そして100組を超える羊の親子が、鳴いたり走り回ったりしながら、混雑の中でお互いを探し出す。

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運よく自分の母親を見つけた子羊は、その乳房にかぶりつく。最初はトントンと母親の胸を叩くような感じで食いつき、乳房を捉えたら、後はゴクゴク飲むだけだ。周りにはまだ母親を見つけられない子羊たちが走り回っているし、こどもを見つけられない母羊も「メェエエエー!」と叫んでいる。

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我が子を探し出す手がかりは、その匂いなのだそうだ。鳴き声で合図もしているけれど、最終的には子羊の匂いを嗅いで、自分の子かどうかを確かめる。めでたく我が子を確認することができれば、そこからが親子の至福のときだ。

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だいぶ体が大きくなった子羊でも、まだまだおっぱいを飲んで育つ。

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Author:kumoki
砂漠人に学ぶナチュラルライフ
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