宗教や慣習について
イスラムについて、わたしは語れるほどの知識も経験も持ち合わせていない。けれど、イスラム世界のひとつであるイランのトルクメンの生活を経験してみて、宗教や慣習について、思うところを書いておきたいと思った。その理由のひとつは、コメントにもいただいたように「イスラム世界は想像もつかない」という印象が日本人にとって最も一般的だと思うからだ。ましてやイスラムを思うときには、大勢で地面にひれ伏して祈っているイスラム教徒の姿、あるいは「アッラーフアクバル」と叫びながら自爆テロを実行するイスラム教徒(飛躍しすぎか?)の姿が頭をよぎるのではないだろうか。わたし自身、砂漠人に会う前はそういう印象を持っていたし、イスラムに対する肯定的な要素はほとんど知らなかった。でもそれはテレビの見過ぎであり、日本や欧米のメディアがイスラムについて完全に偏った報道の仕方をしているからだと、今では思うことができる。たとえば、「イスラム過激派」という言葉がやたらに報道される。イスラム自体を知らない人間に対して「イスラム過激派」を連呼すれば、彼らの無意識に「イスラム=過激派」という印象を次第に刷り込むことになると思うのだ。そして実際、そうなっている。
それはさておき、砂漠人の母の住む町には、イスラム教徒のトルクメンしか住んでいない。今回はそこで、ラマダンやその後のお祭り、結婚式など特別な行事を親戚の一人として経験することができた。もちろんすべてが初めてのしきたりだったので、共感を覚えたとは言えないけれど、それがイスラムゆえに特別なものだとも思わなかった。
イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、仏教徒であれ、ユダヤ人であれ、日本人であれ、誰であれ、彼らはみな同じ人間だ。宗教や慣習というのは多少の差はあれども、基本的には人間が生きる上で必要とされる、心のあり方や儀礼の行われ方だと思う。そしてそれは、それぞれの風土に根ざしたものであるはずだ。だからその一部だけを切り取って「こんな変わったことをしている」と語るのは、無意味だと思うのだ(世界中の人間はそんな無意味なことを平気でやっているけれど)。あくまでも大事なのは、イスラムという背景を持った一個人が、または日本に生まれ育った一個人が、人間としてどう生きているかだと思う。具体的には、家族や親戚とどうつき合っているか、社会とどう関わっているか、どんな生活様式なのか、何を食べているか、などなど。そういった視点から見ると、トルクメンの生活は、わたしが知らないけれど憧れる「古き良き日本」に近いものに思えて仕方がない。未知の世界のイスラム教徒の生活とはとても思えないのだ。
──
抽象的な話になりましたが、わたしがこれからラマダンやその他のイスラム教について書く際には、上のような考え方に基づいて書いていると理解していただければ幸いです。ご意見などいただければもっと幸いです。
それはさておき、砂漠人の母の住む町には、イスラム教徒のトルクメンしか住んでいない。今回はそこで、ラマダンやその後のお祭り、結婚式など特別な行事を親戚の一人として経験することができた。もちろんすべてが初めてのしきたりだったので、共感を覚えたとは言えないけれど、それがイスラムゆえに特別なものだとも思わなかった。
イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、仏教徒であれ、ユダヤ人であれ、日本人であれ、誰であれ、彼らはみな同じ人間だ。宗教や慣習というのは多少の差はあれども、基本的には人間が生きる上で必要とされる、心のあり方や儀礼の行われ方だと思う。そしてそれは、それぞれの風土に根ざしたものであるはずだ。だからその一部だけを切り取って「こんな変わったことをしている」と語るのは、無意味だと思うのだ(世界中の人間はそんな無意味なことを平気でやっているけれど)。あくまでも大事なのは、イスラムという背景を持った一個人が、または日本に生まれ育った一個人が、人間としてどう生きているかだと思う。具体的には、家族や親戚とどうつき合っているか、社会とどう関わっているか、どんな生活様式なのか、何を食べているか、などなど。そういった視点から見ると、トルクメンの生活は、わたしが知らないけれど憧れる「古き良き日本」に近いものに思えて仕方がない。未知の世界のイスラム教徒の生活とはとても思えないのだ。
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抽象的な話になりましたが、わたしがこれからラマダンやその他のイスラム教について書く際には、上のような考え方に基づいて書いていると理解していただければ幸いです。ご意見などいただければもっと幸いです。
